補習校が開校した1974年当時に勤務していた佐原節子先生という方を紹介したいと思います。
“温故知新”(おんこちしん)「ふるきをたずねて、あたらしきをしる」という故事があります。社会状況が困難にある今、少し立ち止まって歴史を振り返り、補習校の歩むヒントを考えてみたいと思います。
まず、佐原先生を偲んで同僚のスコット恵子先生が寄せた一文を紹介します。 「ベテラン教師というのは、すでに自分流のやり方があって、新入りにはとてもついていけない壁がありそう。 これじゃあ月とスッポンだなあ・・元々教職が専門ではない私にとって、いくら指導書を参考に授業計画を立てても、実際の授業ではなかなか計画通りに行かず、やはり頼るべきものは先輩教師。佐原先生は多忙な土曜日であろうが、私の質問を受け止めてくださいました。
ある日、私が子どもたちの騒々しさを訴えたら、先生はちょっと間を置き、こう話されました。『そうねえ。私は時々目かくしかくれんぼをするんですよ。教室をよく観察させてから目をつぶらせ、どこに隠れようかと考えさせるんですよ。一分間ぐらいだけど子どもたち、一生懸命考えていますよ』。
また、先生の頭には常に新しいアイデアがいっぱいでした。こういうものを作ったからと見せてくださったのは、漢字の練習用に作成された『かん字ロケット』でした。私も見習って子どもの学習意欲を刺激しそうなアイデア・プリントを作るのが楽しみになったほどです。私が作ったものをお見せした時はいいアイデアだから、それを使ってみましょうと喜んで賛成してくださったので、ほめられれば大人でも嬉しいものであることを改めて感じたことを今でも覚えています。
今は亡き佐原節子先生の補習校への貢献度には計り知れないものがあるでしょうが、私個人にとっても‘恩師’と呼ぶにふさわしい先生でした。佐原先生から教わったことは私の心の中で生き続け、私が子どもたちに教えていく上で、何らかの形となって生まれ変わってくれるものと信じています」(『ジョージア日本語学校20周年記念誌』1994年)。
次に佐原先生が書かれた一文(1982年1月23日「学校だより」)を紹介します。 「その頃は教科書も印刷機もなく、教材をつくるのに大変苦労しました。何かいいものがないかなといつも考えていました。 いい物語なんか見つけると、そりゃあ嬉しかったですよ。それを、子どもの人数だけ一枚一枚書くんですよ。今のようなコピー機がなかったからね。一生けんめいつくった教材を子どもに渡すんです。 でも子どもたちはキョトンとしているんです。そりゃそうよね。日本語をほとんど知らないのね。喜んで読んでくれれば、苦労のかいがあるのに、がっかりとしますよ。 でもね、しばらくつづけると少しずつ読んでくれるんです。会話も日本語でトツトツと話せるようになりました。自分の家にある本を持ちよって、みんなでまわし読みするようにまでなってくれた時、嬉しかったね。 教室なんかも、大学の校舎を借りているでしょう。机などが高くて子どもに合わないんです。低学年の子どもなんか、いないのかと思ったら机の下にいるんです・・これは冗談だけど、首だけ見えている子どもがたくさんいました」。 当時の補習校は児童生徒数147名、教員11名、現在とは別の苦労の連続だったと思います。私は佐原先生のエピソードから、教員としての同僚性(協働するチーム力)、子どもの目線にたった教材作りの大切さなどを学びました。 学校には「教育のリレーランナー」としての役割があります。これまでに多くの方々によって受け継がれてきたバトンです。困難な状況にあっても、次代へしっかり渡したいと思います。
2020年11月20日
ジョージア日本語学校
校 長 小 泉 敦