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はなみずき 6/11/2021 #10 (第39号)

私は1960年3月生まれですので、64年に開催された東京五輪の記憶はありませんが、68年のメキシコ五輪のことはよく覚えています。体操男子団体や重量挙げ三宅選手の金メダル、マラソン君原選手の銀メダル、サッカー男子の銅メダルなど、鮮明です。


この時、陸上100㍍で五輪史上初となる2大会連続金メダルを獲得した米国女性がいます。ジョージア州アトランタから約60㌔南のグリフィンで幼少時代を過ごしたワイオミア・タイアス(1945年生れ)さんです。

彼女は白人が所有する農家の黒人家庭に生まれ、農場内で育ちます。父は畑で、母はクリーニング屋で働いていました。当時は黒人が白人の女の子と遊ぶことは禁止され、男の子としか遊べなかったといいます。女の子は目立つことさえ好まれない時代でした。


タイアスさんは15歳の時、テネシー州立大学で多くを五輪に出場させていた黒人指導者エド・テンプル先生に出会います。先生の勧誘を受けたタイアスさんは、自宅から400㌔以上離れるテネシーへ一人列車に乗って向かいます。当時の黒人は専用列車しか利用できませんでしたが、乗客は優しかったといいます。


4年後、タイアスさんは19歳で出場した東京五輪で金メダルをとります。その4年後、今度は王者としてメキシコ五輪を迎えます。

キング牧師が暗殺された68年に開かれたメキシコ五輪は米国代表の陸上選手2人が表彰台で黒い手袋をして拳を突き上げ、無言の抗議をしたことで知られます。この時、黒人のタイアスさんは練習用の黒いショートパンツをはいてレースに出ます。


現在76歳になるタイアスさんはこの時の心境を、次のように語ります。「世界には変化が必要で、何かをやるべきだという感情が自分の中にこみ上げて、誰にも相談せずに抗議した私なりの行動でした」。

当時、タイアスさんが育った米国南部は人種隔離政策のために黒人は投票できず、レストランへの入店も制限されていました。


男女を通じて初めて五輪100㍍を連覇したタイアスさんはメキシコ五輪後プロ選手として活躍、引退後は後進の指導にあたり、アフリカでも教えています。

陸上という競技を通じて世界を旅し、多様な人種や文化に触れて多くを学んだというタイアスさん。他の人の生き方を尊重して、決めつけない大切さに気づいたから、自分を見つめなおすことができたといいます。

2018年に共著の自伝『TIGER BELLE(タイガー・ベル)』を出版、現在はロサンゼルスで暮らしています。


2021年6月11日

アトランタ補習授業校

校 長 小 泉 敦

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